
パク・チャヌク監督の代表作にして復讐三部作の一つ「オールド・ボーイ」、その圧倒的な後味の悪さとやるせなさ、そして作品としての魅力について原作である日本のマンガ「オールドボーイ(土屋ガロン&嶺岸信明)」と対照させながら考えてみる。(以下、引用において無印は映画、“原作”はマンガ)
ちなみに初見は公開から大分遅れて昨年末。原作を先に読んだ。カンヌでタランティーノが云々、虎ノ門で井筒監督が云々というのを横目で見つつ、なんとなくタイミングが合わずにいたが、ここのところマンガ、映画ともに何度か見返していた。
TVと想像力
15年(マンガでは10年)という時間を理由もわからずに監禁される主人公には外世界との接点は毎日の中華料理の食事とTVのみしか与えられない。
もしあなたが雨の日に公衆電話の前で紫色の傘で顔を隠した男に会ったら、テレビと親しくなることをお勧めしたい
テレビは時計と暦であり、学校であり、家であり、教会であり、友達であり、恋人だ
オレは“命がけ”でTVと向き合った
そしてある視点から眺めればTVには“この世のすべて”が映っていることに気づいた(原作)
原作ではこうもある。
それがニュースであろうと歌番組であろうとバラエティであろうと劇映画であろうと良識じみたドキュメンタリーであろうと…
TVに映ることはすべて虚構(フィクション)である
あらかじめ構成、演出された映像と音声を逆算してさらに想像力で《解析》することは果たして可能か…!?(原作)
現代の多くの人にとって、TVというのは離れがたい日常ではあっても全面的な信頼をよせる対象、情報源としては疑問と不安を感じるのが当然だろうと思う。TVが全てであった時代は当の昔、今年始まってすぐのTV界最大の話題が例の「あるある捏造事件」であるのも皮肉だが象徴的だ。その“事実”を承知した上で、作為と脚色と操作を計算に入れた上で、どうにも縮まらない対象との距離を承知した上でそれでも尚TVから外界の様子を知ろうというのは可能だろうか。不条理な15年(10年)の「監禁」の目的が自分の精神崩壊にあるのではと考えた時、主人公はいつかそこから出られた時の「復讐」のためにTVと命がけで向き合う。姿の見える他人はTVの中にしかいなかった。
TVの送り手側と受け手側、その間のリテラシーの役割については「あるある」の件を受けての以下の二つの記事が興味深いが、ここでは紹介するにとどめる。
自分の力で外に出ることを望んだ主人公はまた不条理にも“不意に”外界へと解放される。
聞いてくれ
俺は獣にも劣る人間だが
生きる権利はあるんじゃないか
孤独な監獄の中、自分を閉じこめた相手の思惑通りにならないように正気を保とうと内省と肉体の鍛練、イメージトレーニングを積んできた主人公は、外の世界に自由を感じるのだが、本当の監獄はここから始まる。

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