「転換期の作法」はどう受け止められたか


Warning: count(): Parameter must be an array or an object that implements Countable in /home/users/2/add-info/web/blog/wp-content/plugins/post-plugin-library/common_functions.php on line 174

その総入場者数がどれくらいのものかはわからないけれど、日本ではマイナーな地域のよく知られていない作家たちの展覧会は、意外にも多くのブログで色々な感想が述べられてきた。

昨年8月に大阪の国立国際美術館でスタートしてから、広島市現代美術館そして東京と現代美術館へと巡回、3月26日の会期が終了からもう1ヶ月が経とうとしているが、リアクションも落ち着いた今だからこそ、この展覧会がどう受け止められてきたかを考えることで何か見えてくるものはないだろうか?

この「転換期の作法」について考えることは、「現代美術」そのものについて考えることにも有効であると思われる。

ここでは「転換期の作法」を見た人の感想や考察が綴られたブログで、個人的にクリップしてきたものの中からいくつか参照しながら、それをヒントにもう一度その意味を考えてみたい。

またこのためにブックマークしたものは、

にあるので、興味のある人はここからさらに辿ってみるのも面白いだろう。また以下の引用部分はあくまで各記事の一部にすぎないので、詳しくは参照先の記事を読んで欲しい。

目の前にある作品を観る自分も西洋文化(ここの記事内では元西ヨーロッパ。昔のNATOに主に属していた国々を指すものとしておきます)から発信された作品だけを唯一絶対の価値基準に知らず知らずのうちに定めその結果その他の文化の作品を「退屈」で「つまらない」ものと思ってしまっていることは否めません。

弐代目・青い日記帳 | 「転換期の作法展」

見慣れないものを評価できないのなぜだろうか。鑑賞し評価する価値基準は何によるものだろうか。私たちの価値基準を形成しているものの多くはアメリカと旧西側のヨーロッパの価値観と美意識に拠っている。

こういう、ナンセンスのセンスや、コマーシャリズムや労働とかに対するシニカルな視点というものは、旧共産圏だから鋭く発達したという側面がありはしないのだろうか? こういう一連の作品を見ていて、ふと、全く無意味な穴掘りと穴埋めを交互にさせるという、ロシアの拷問を思い出した。

アクチュアルな堆積物: ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術@東京都現代美術館

ナチスドイツの脅威から戦後ソビエト共産圏のコミューンへ。大文字の「理想」と「物語」が現実に破綻していく中で、アーティストがクリエイティビティを保つために身に付けた強度。

その自虐的ともとれるユーモアは決してシニシズムに陥ることはない。

私はすごく考えさせられ、時に胃が痛くなったのですがw、それは私が勝手に感じてるもので(自分の生き方を振り返るといぅのでしょうか) この展示自体は 全て感傷的でも悲観的でもなく 逆に息吹を感じるものだった気がします。アーティストたちの主旨は汲み取れてないのかもしれませんが、見てみて自分なりの世界が広がったので それもまたアートのなせるわざなのかもしれません、なんてねw

Several women,several minds^?^♪

アートは一つのメディウム=メディア(触媒、媒体)であって、そこに投影されているものは作家や同時代が今そこにある(いる)ポジションであるし、そこからのビジョンだ。

芸術は時に残酷だ。芸術の名の下に、弱者をえぐりさらけ出す。そのメスが単なる好奇心であるならばただの暴力だ。あるいは、その意を解さないものからは安易で暴力的な批判が投げつけられる。そこから発生する【解る / 解らない】の差異による差別意識。

Yahoo!ブログ – 某放送局員の音楽他趣味雑記

だから芸術家たちは、それぞれの想像力をフルに回転し、いかに自分の思想・感情・メッセージを具現化するかを考え、その結果現代芸術は時に「難解だ」と評されるものとなっていっている。
そんな気がします。

Make New Community? | 転換期の作法?ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術@東京都現代美術館

現代美術はよくわからんと考えている人にこそ見て欲しい。日常の感覚、「普通」の感覚から少し逸脱したり、逸脱したところから皮肉ってみえたり、一歩抜け出て考えるとこんなにも世界はおもしろいのか、なんて思いました。

東京現代美術館-THE LIFE MAP

Comtemporary Art の"comtemporary"は、「現代の」の意であり、「同時代の」という意だ。そこには美しいものも醜いものも、真面目なものも馬鹿馬鹿しいものも、柔らかいものも鋭いものもある。表現方法や視点こそ作家それぞれの資質やリアリティ、切実さ、あるいは履歴によるけれど、そこで提示されているものは自分たちの生きているこの同じ時間の何かだ。

現実や他者の理解が決して易しくないように、この展覧会の作家たちが、わかりやすいカタルシスに逃避しなかったことを評価したい。それでもそれをネガティブでなく、ポジティブに感じられた人たちにとって、この展覧会が大きい意味を持っていたということを確信している。

転換期の中で彼らが獲得したその表現は同時代の私たちにも確かな「きっかけ」をもたらしたのではないか。

転換期の作法
ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術
2006年1月21日 – 3月26日(既に終了)
東京都現代美術館

Similar Posts:

    None Found

One Response to “「転換期の作法」はどう受け止められたか”

  1. umikiyo

    正直言って、他の現代美術展やポップアートを多く見ているせいか、インパクトは薄いが、彼らのまじめさは、日本人には理解されるのではないか。

    返信

Leave a Reply to umikiyo

返信をキャンセルする。