何と私の何を「私のいる場所」


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続き。これで最後。
さて、この展覧会はもともとどういう意図で企画されたものだったのだろう。

本展は、「現代写真」や「現代美術」またハイカルチャーやサブカルチャーといった複数の文化領域に分化・棲み分けされた状況である現在のシーンを連続したものと捉え、ゼロ年代(西暦2000年以降)をひとつの展覧会として提示することを目指します。

東京都写真美術館 私のいる場所-新進作家展vol.4 ゼロ年代の写真論

「ゼロ年代」という言い方で一つ思い出すのは、昨年クリスマスに行われた、新宿セミナー@Kinokuniya「ゼロ年代の批評の地平 ―リベラリズムとポピュリズム/ネオリベラリズム」。東浩紀、北田暁大、斎藤環、山本一郎(=切込隊長)の4人が、ポスト90年代における思考を分析するというもの。僕もこれに行っていたのだが、その中ではまとまらないながらも何かを鈍くさいくらいに手探りで思考していて、それはなかなか面白かったし、何か見えてきそうでもあった。(参考:成城トランスカレッジ! ―人文系NEWS & COLUMN― – 『波状言論S改』刊行記念トークセッションまとめ
その時のちょっとしたやりとりがずっと気になって、自分で別にしばらく考えていたこともある。

果たして、この「私のいる場所」がゼロ年代の写真論と言えそうな何かを感じさせてくれたのか、あるいは何か手探るきっかけになったのかというと、残念ながらそれは疑問だ。

展覧会は次のようなパートで一応順序立てて構成されている。

  1. 私のなかの私
  2. 社会のなかの私
  3. 日常への冒険

まず、写真において「私性(プライベイト)」というテーマがゼロ年代を考えるべきテーマとして新鮮に感じられない。また、最後の「日常への冒険」のフロア(みうらじゅん、セカンド・プラネット、ロモ)は別にして、パート1とパート2の「私」「社会」というのがとても曖昧に感じる。他者に被写体を求めるのが社会ではないし、先のエントリで挙げたジャン=ポール・ブロヘスのように私にとって、なじみ深く必要なもの、私の人生を撮っているにすぎないのに、それ以上に社会や外世界との関わりを感じずにいられないものある。他者が写っているのにその眼はあくまで自分の内部に向かっている閉じた内向的な写真。他人と関わる公的な場の中でのアイデンティティの表出がマグカップや本ばかりではとても淋しい。集合住宅の孤独、都会の孤独。それは確かに現実かもしれないけれど、「ゼロ年代」として提示されるものがそれでは本当に望みがない。

そういう意味でも、他者との積極的な関係性を持とうとする「パート3.日常への冒険」がバランスをとるのに重要であるのだけれど、セカンド・プラネットにしてもみうらじゅんにしても「写真の他者である」ことを強く感じてしまうのがなんとも皮肉に感じる。

いつまでも「私のいる場所」探しばかりでいいのだろうか。

私のいる場所-新進作家展vol.4 ゼロ年代の写真論
東京都写真美術館
2006年3月11日(土) ~ 4月23日(日)

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