アートという戦場 ソーシャルアート入門 / フィルムアート社
SICE / Sarajevo International Culture Exchange の二人の作品が表紙のプラクティカ・シリーズ。
アートは戦場か?サラエボは戦場ではない。
戦場では早く帰りたいと思う。帰るところのある人間が、帰るところのない人間を撮る矛盾があります。
<死>と向かい合う 亀山亮
という写真家亀山さんの言葉に、はっとさせられる。
ニーナは言っていた。みんな「サヨナラ」と言うけれど、わたしはここに残らないといけないの。だから「またね」って。
その亀山さんの章に入る前のページがニーナの写真なのは偶然か。
貧しい人に惹かれているのではない。怖いものが見たい、撮りたいわけではない。森山さんが潜入取材みたいな感じで紹介されて、中途半端なお金をもらって納得がいかなかった
のは何でだろうか?何に対してだろうか?
今年の滞在の後半、いろんなことにうんざりしながら、それでもサラエボにいなければいけなかった、自分にそう思わせていたものは何だったろうか?
サラエボで崩された東京のリアリティをまた積み上げながら、それをまだ考えている。
サラエボは戦場か?
「さっぱり分からん」
「さっぱり分からん」
とはっきりした声で語ったのだが、それすらも作品の一部なのか、そうでないのか区別がつかない(区別する必要もない)。「あのおじいさんの台詞が良かった」という感想も複数から上がった。<ワークショップ>で作る 野村誠
いくらかの違和感を覚えながら読み進む。しかしこの章に来たとき、なんだか別にどうでもよくなった。すっきりした。年齢も性別も障害者も健常者も混在する参加者とワークショップの中で作品を作ろうとする作曲家野村誠さんの「二極対立から自由になるメモ」を引用する。
- 東洋、西洋という図式を無効にすること
- 障害者と健常者という図式を無効にすること
- そうしたことから新しいアートフォームを形成する
つまり、誰が障害者か判別できないような音楽を作ればいい - 健常者が力を発揮できるルールに障害者は馴染まない
- 障害者が力を発揮できるルールに健常者は馴染まない
- そうではない
- 健常者と障害者のどちらもが力を発揮できるルールを探求すること
- どちらかのルールに引き寄せるのではない
- それが、新しいアートフォームになる
非日常の中の日常、日常の中の非日常を感じながら、つまらないルールに囚われている自分を何度でも崩したい。そして崩されたくない。そのとき周りにいる人たちと関係したり、しなかったり。自分にとって、それをする言語が「アート」なんだと思う。内容は何だっていい。
現在は未来を正しく評価できない。
未来はいつまでも現在にならない。
そうではない。
サラエボは戦場ではない。
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