理想ということ。
- 理想科学工業
- 理想の女
- 理想の出会い
- 理想のバストアップ
- 理想の恋人
- 理想のサイドビジネス
ウェブ上資料の膨大なアーカイブであるはずのGoogleに聞いてみたところ、「理想」はどうやらこういうところにあるらしい。
ウィキペディアに聞いて見る。
理想(りそう)とは、あるものが現時点から変化して、そうなることが望ましいと考えられる状態。また、ある条件を定義し、それにあてはまったものを指して「理想」と呼ぶ場合もある。
もちろん「理想」の答えを検索に訪ねるなんてことがばかげたことはわかっているのだ。
そうなることが望ましい、示すべき、「理想」の形態あるいは所在。閉塞的な変わっていくべきものとしての「現実」というものが、常に「理想」と対置すべきものなのかはわからないが、その大小の現実的な、もしくは非現実的な「理想」へ「現状」を厳しく捉え直しながらあれこれ右往左往するのはどこか「クリエイティブ」ということと繋がり、そして乖離しているのかも知れない。
「なんかしっくりこない」
「描きたいのはこんな絵じゃない」
「もっといい線を」
作りたい「作品らしいもの」と色々な理由(=言い訳)で目の前に出来てきている「ここまで」。制作の中でいつも考えているのは大きな「完成」よりも、その過程毎での現状判断の方が大きいのは自分だけだろうか?それはもちろん着地すべきところが全く見えていないのとは違う。それでは判断できない。
思想的な意味での「理想」にからめ捕られてしまっては、作品など成立するはずはないけれど、あるビジョン(遠いものも近いものも)がなければ、作品の意味はない。
アートの持つ「言語化できない部分」に依存しすぎては作品は作家の独りよがりに過ぎないものだけれど、全てが言語化、テキスト化、視覚化できるとするならば、アーティストの存在は希薄になる。
コンセプトと、それとは重ならない感覚的、身体的な判断と。その間を無責任に横断的に行き来しながら、そのどちらもうまく扱えるはずだとどこか信じている無垢さ。対立していた2つのものが、たまたま重なるそのバランスが「作品」であって、それに必要なバランス感覚と嗅覚が「デッサン力」なのだろうと思っている。
制作という判断の積み重ねで常に書き換えられる、ある着地点。
自分が無自覚に揶揄したのは、薮のなかにたてられた立派な「理想」なのか、無自覚な学生に「理想」という「現実」をつきつける何かなのか、「理想」をネタとして捉えてしまう自分(たち)なのか。自分の制作態度こそを批判的に何回でも問い直さないといけない。
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