「転換期の作法」を見る作法

東京都現代美術館で開催中(06/01/21-03/26)の「転換期の作法 ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術」について。

この展覧会は、中東欧地域のうち、状況がやや異なるバルカン半島などを除き、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー4カ国の現代美術を紹介するものです。

転換期の作法:リーフレット

    ・・・中略・・・

直面した「資本主義的ジャングル」の現実は厳しく、弱者救済の措置が十分に執られることもないまま、貧富の差は開く一方だともいいます。そうした日常のなかでアーティストたちもまた、それぞれの位置取りと生き残りの作法を模索しています。

例によって Technoratiで「転換期の作法」を検索してみた結果を当ってみると、おおまかなところ感想は以下のような感じになる。

  1. 見に行きたい。(まだ見てない)
  2. とにかく面白くない。
  3. ビデオ作品が多く、長いので全部見れなかった。
  4. 西洋的文脈からしか評価できないことを感じた。

僕も昨年に大阪の国立国際美術館で開催していた時期(05/08/02-10/10)から東京に来るのをずっと楽しみにしていた一人として、ハンガリーと今回外されたバルカン半島に縁と興味を持つ者として見に行ってきた。

チェコのプラハや、ハンガリーのブダペストなどは古い街並みの残る美しい都市として欧米でも日本でも人気のある観光地ではあるが、多くの人にとってはやはりどこに位置するかもはっきりわからないマイナーな地域であろう。ましてやそこの「現代美術」である。知らない地域の「よくわからない、難しいアート」がどれだけの人にわざわざ見に行くだけの魅力を持ちえるのか?

「とにかく面白くない」というのは、よくわかる(僕は面白かったと思っている)。これは今の日本の美術史の文脈が完全にイギリス、アメリカ、ドイツ、フランスなどの「西洋的文脈」に偏っているということと関係している。美術というのは表現する側においても評価・批評においても、自由なようで実は全然自由ではない。

「全てやられてしまった」

美術の楽屋オチ・内輪ネタにもなりかねないモチーフをいくつかのばかばかしいビデオで提示しているポーランドのグループ、アゾロの作品「全てやられてしまった」でメンバーは場所を何度も変えながら、次に作るべき作品についてミーティングをしている。思いついたアイデアを誰かが提案してみると、即座に他のメンバーによって「それはもう誰かがやってるよ。」と否定される。「ではあれをやるのはどうだろう?」「それもきっと誰かがやっているはず。」注意したいのはここでメンバーが出すアイデアのヒント自体が全てもう誰かがやっていることなのだ。「じゃあ、何もやらないのはどうだろう?」「それはもう絶対にやられてるよ。」

こんなやりとりは制作側にとっては日常風景だ。「オリジナルである」という強迫観念にも似た幻想は作家の制作にとって足枷でしかない。大体今までの文脈をふまえない「孤高」の「オリジナル」な作品が現れたとして、それを評価・批評出来る人は少ない。

マルセル・デュシャンが偽名でただの便器である「泉」を無審査のニューヨーク・アンデパンダン展に出品した時、それは展示を拒否された。そして展示委員の立場から抗議をするが結局「泉」は紛失したということにされる。無審査のアンデパンダン展のことだ。
デュシャンを最初に評価したのはデュシャンである。
美術の文脈(価値基準)から大きく外れた「泉」を誰も評価できなかった。そして今ではその「泉」が「世界の芸術をリードする500人に最もインパクトのある現代芸術の作品」とされている。

現代美術をよく見る、ある程度リテラシーのある人たちにも、どの作品だって洗練されていない未消化なものにしか見えないか、もしくはただ長く退屈なだけかも知れない。それはここにあるのが、見たことも聞いたこともない、紹介も評価もされていないものだからだ。どこの誰に?

彼らの作品はなぜスマートに見えないのか。あの長さが何で必要なのだろうか。あの小汚く見える子供たちは何者か。なぜマウスや携帯電話が重いのだろうか。そもそもこの展覧会からオーストリア(美術史の文脈でウイーンは欠かせない)とバルカン半島(サラエボのあるボスニア含む)が外されたのはなぜか。

ウイーンは洗練されすぎているし、ボスニアとセルビアはまだ転換期にさしかかってすらいない。

今回紹介されている作家のほとんどは1960年代に生まれて、ヨーロッパと大きな物語が崩壊する1990年前後を20代で迎えている。そして約半分はその後ベルリン、アムステルダム、ロンドン、パリなどでレジデンスを経験している。

人は何もしていない時ほど活動的なことはないし、一人でいる以上に孤独でないことはない

 近年のスポーツ器具の発達には、もはやいかなる場合にも使用されることのない技能を発達されることなど目指さず、全く静的な形へと変形した側面も見られる。トレーニングという名の、それぞれの動作を目的なしに絶え間なく繰り返すこと、つまり練習の練習は、それ自身のあり方を見いだす一方で、本来スポーツの持っていた、現実の活動の模倣という側面からは遠く離れ去った。

*INERS the power / *ラクネル・アンタル

  • INERS(ラテン語)・・・
    1. 熟練していない
    2. 不活発な、緩慢な、怠惰な、のろのろした
  • ラクネル・アンタル Antal LAKNER・・・出展作家。ポスターになっている重力倍増スーツなど

全ての作家に同様に、かつてあった東と西の対立構造、放り込まれた「転換期」にばかり背景を求めるのもそれはそれで不誠実ではあるが、今はそれを手がかりに彼らが表現したかったものを、選ばなかったものを考えてみるしかないのかも知れない。

リファーと文脈なしに作品をきちんと評価できるほどには、僕らはまだひらかれていない。

転換期の作法
ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術
2006年1月21日 – 3月26日
東京都現代美術館

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4 Responses to “「転換期の作法」を見る作法”

  1. tomoki

    僕は大阪で見ましたが、かなり面白くて即座にカタログも買いましたよ。今回のもまた見に行くつもり。世間での評価がネガティヴなのはこのブログで初めて知ったけれど、その原因は書いてくれた通りだと思う。
    実際、アゾロに代表されるものの面白さを僕もうまく言葉にできないけれど、Kei君のそれを言葉にしようとして書いてくれたことに敬意を表します。

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  2. Kei

    tomokiくん、昨日はSICEのオープニング来てくれてどうもありがとう。

    転換期の作法をちょっとフォローしてみたくなったのは、自分の好きなハンガリーやら中欧がなんとも「難しい」とか「わからない」だけで済まされてしまうだけじゃ、寂しかったからなんだよね。

    なんか反って、敷居を上げてしまってるような気がしないでもないですが…

    なんでもっとすっきりと完結に書けないんだろうね。と自分でたまに思っております…

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  3. ラムダ

    はじめまして、ラムダと申しますm(_ _)m

    今回トラックバックさせていただきました(>Д<)ゝ”

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