フルクサスの共有財産


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一方、六十年代に多くの作家によって言葉で書かれたパフォーマンス(アーティストによる身体表現の総称)のスコアーは、現在、メンバーたちの共有財産同然になっている。このスコアーは、経済優先と著作権重視の社会において、フルクサスが残した、未だ枯れていない「神聖な泉」と言えるのではないだろうか?

フルクサスとは何か? -日常とアートを結びつけた人々

引用の冒頭の「一方」は、ジョージ・マチューナスがフルクサスの作家たちのコンセプトを具体化して作っていたマルチプルについての記述を受けている。

一冊2,30ドルだったエディションが、彼が亡くなる直前には、250ドルになったと言って喜んでいた程度だ。それが彼の死後、市場ではその100倍以上の値がついていることを考えると、貧困のうちに世を去り、後になって作品が法外な価格で売買されていることを過去の多くのハイ・アートの作家たち、マチューナスが社会から排除すべき対象として攻撃した芸術家たちに、彼もまた、皮肉にも仲間入りをしたわけである。

Youtubeで簡単に映像が見られるようになったつい最近まで、「フルクサス」と聞いてイメージしたのはまず、マチューナスによってデザインされ、パッケージングされた「キット」だった。そのいくつものバージョン、それぞれの中に含まれる小品の数々は「フルクサス」に集まった作家の作品やコンセプトをマチューナスが編集・デザインして社会に流通させようとしたものだ。

「一方」によって、対称におかれているマチューナスのキットとパフォーマンスのスコアー。しかしその二つはやはり「フルクサス」らしい意味で共通している。

冒頭の引用の続きからさらにひろってみる。

演奏に際しては、事前または事後承諾のかたちで、作者に知らせることもあれば、無断のまま行なうこともある。わずかな例外を除いては、互いにそのことを了解しあっている。マチューナスが理想としていた作品の匿名性と共有性が、こんなかたちで今も保たれているわけである。

匿名性」に「共有性」、「著作権重視の社会」。1960年代にマチューナスとフルクサスが問題にしていたキーワードが、ここ数年のインターネットから問題にされるアートと著作権、制作のあり方を巡るキーワードとぴったり重なっているとするのは早急だろうか。

… 続く。

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