サラエボでの紛失から一年半という時間


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P2102V

2005年夏のサラエボでなくしたボロボロの携帯電話“P2102V”が、昨夏に再度サラエボへ行っていた友人の手を経由してついこのあいだ自分のところへ戻ってきた。当時から薄々犯人はわかっていたものの、あらためて懐かしい、なくしたはずの携帯を充電後、電源を入れてみると切ない気持ちになる。

そこには僕が撮ったのでない写真と動画がたくさん残っているからだ。

P2102V-Sarajevo

携帯が消えたことに気付いた時から、ただ悲しくさびしかっただけだったけど、あらためてこうして見るとなんだかやりきれない。それは別に「盗る=盗られる」ということでなく、彼女たちとあしかけ3年に渡る関係、そこでのコミュニケーションがいったい何だったのかという喪失感だと思う。

ただそこに残された、(日本人の目を気にしない)彼女たちの素の表情はとても魅力的で、そのどうってことのない写真の数々は嬉しくもあり、自分にはサラエボの経験と一緒にとても大切なものになると思う。

キッズ・サバイバル—生き残る子供たちの「アートプロジェクト」その数百枚の写真を見た時に思い浮かんだのは「セルフ・エデュケーション時代」、「キッズ・サバイバル」のセディ・ベニングのおもちゃのビデオで撮ったプライベートなビデオ作品だった。

「私のママはメロドラマばかり見ているの」
「ハムが好きな人をたくさん知っているよ」
「腕がハムみたいな女の子を知っているよ」
「学校に行かなくちゃ」
「学校はきらい」

LIVING INSIDE / SADIE BENNING

「私と結婚すれば?きれいじゃないけど、かわいいわよ」
「女の子どうしじゃ結婚できないわよ」

ME AND RUBYFRUIT / SADIE BENNING

彼女たちの傷みにも、どうってことのない日常にも自分は到達できそうもないけれど、アメリカと日本とサラエボはどうしようもなく離れているけれど、アーティストでもなければ、作品でもない、この携帯に残された低解像度の写真の嘘っぽいリアリティは会ったことも見たこともないセディ・ベニングの作品よりも自分には意味がある。

そしてやっぱり彼女たちには感謝している。

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2 Responses to “サラエボでの紛失から一年半という時間”

  1. Junko

    この写真見ちゃったらさ、なんかすごく言いたいことわかるなぁ。そこに写ってるピュアな部分とあのタイミングで盗るずる賢さがやるせない。

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  2. Kei

    ほとんどアデラの自分撮りなんだけど、左上のシェイラのとか、周りの友達や家族、窓から外を歩く人を撮ったものとか、200枚以上入ってる。ここに写っているシェイラもサラエボも自分の見ていたものと同じなはずだけど、違うんだよね。

    返信

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