『アワーミュージック』のサラエボ

なぜサラエボか?

なぜサラエボか?
パレスチナのせい、テルアビブのせい。和解が可能な場所を見たかった。

アワーミュージック 王国2 煉獄

イスラエル人女性ジャーナリストのジュディット・レルネルはサラエボのフランス大使館で大使を前に自分に問いかけ、そう答える。

レルネル「私たちの集会に来てください。大使としてでなく、自由な人間として。昔と同じように。正しい会話でなく、単なる会話です。」

1943年ナチス・ドイツの占領下にあったリヨンで学生だった大使は、「ホテル・テルミニュス」で、ナチスに迫害されるユダヤ人の若いカップルを匿った。レルネルの祖父と祖母。


昨年日比谷シャンテ・シネ、名古屋シネマテーク他で公開されたゴダールの「アワーミュージック」が渋谷のイメージフォーラムで4/21までアンコール上映されている。

サラエボで撮影されたこともあり、昨年のカノーヴァンでのイベントの前に日比谷で見たのだが、それからずっと気になっていることがある。

「ゴダールはこの作品をなぜサラエボで撮らなければならなかったのか?」
自分の見てきた、そこにいたサラエボと、映画パンフレットに採録されたシナリオを頼りに少し考えてみようと思う(このエントリ中の引用はシナリオ及びインタビューでのゴダールの回答から)。

Sniperイスラエル人(ユダヤ人)、パレスチナ人、フランス人、スペイン人、ネイティブ・アメリカンといった様々な国籍を持つ人物たちがジャーナリストとして、作家として、詩人として映画監督本人として登場する中、ボスニア人もクロアチア人もセルビア人もここには台詞のある人物として登場しない。サラエボで。
作中に出てくるサラエボの街並みはブトミル空港からスナイパー通り、チトー通り、ミリャツカ川沿いと全てトラムの走る大通りのみ。

サラエボ人の登場しないサラエボのメインの大通り、ゴダールは何を撮らなければならなかったのか。

*ゴイティソーロの話をガルシアが通訳する。
ガルシア「ここは1993年の戦争当時、セルビア軍の最前線でした」
レルネル「砲撃はあの上から?」
ガルシア「そう、簡単ですから」
ゴイティソーロが語った言葉を通訳するガルシア。
ガルシア「思想のための殺人でも、殺人は殺人だ」

  • ゴイティソーロ・・・ファン・ゴイティソーロ/スペインの作家。実名で本人として作中に登場する。著書に「サラエヴォ・ノート」など。

空港から中心部に向かうタクシーの中、砲弾の痕の残る建物を見て涙を流すレルネルはジャーナリストとして感傷に過ぎる。その光景はサラエボの現実ではあるが、表層のイメージでしかない。

Holidayinn戦争当時、ジャーナリストたちの溜まり場であったホテル「ホリディ・イン」1Fロビーで、レルネルはパレスチナの詩人*ダーウィッシュにインタビューをする。

レルネル「『隠喩としてのパレスチナ』のなかに、“もし我々が詩で負ければ、すべてが終わる”とあります」
ダーウィッシュ「民族や詩に終わりが訪れることはないと思う。その引用も不正確だ。そこにはほかの意味もある。勝利も敗北も、軍事用語では評価できないということだ」

  • ダーウィッシュ・・・マフムード・ダーウィッシュ/パレスチナ人の詩人。70年代にはPLOに参加していた。実名で本人として作中に登場する。

イスラエル人ジャーナリストのヘブライ語とパレスチナの詩人のアラビア語。
ここからロシア出身のユダヤ系フランス人オルガを中心にイスラエルとパレスチナの非対称が一つの軸として語られ始める。

ゴダール「1948年、ユダヤ人は水を渡って約束の地を目指し、パレスチナ人は水を渡って溺死した。(二枚の写真を重ねたり、離したりしながら)カットの切り返し、イメージの切り返し。フィクションのユダヤ人と、ドキュメンタリーのパレスチナ人」

少し前に戻る。

ゴダール「カットの“切り返し”は映画の基本だ」

その前

ゴダール「努めて物事を見ること。努めて物事を想像すること。前者は“目を開けてみよ”、後者は“目を閉じよ”ということだ」

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立ち位置、それこそ対話の場所をサラエボに定めることで仮人称として扱い得るイスラエルとパレスチナ。昨年の11.サラエボ・フィルム・フェスティバルで、Hany Abu-Assad監督の“PARADISE NOW”を見た時、僕は気持ちの良いオープン・エアー・シネマ、スクリーンの中のパレスチナを、サラエボの人たちはどう見ていたのだろう。と思った。

サラエボだから扱えるイスラエルとパレスチナ。イスラエルとパレスチナを扱うことでまた意識せざるを得ないサラエボ。その相似と非対称。
ゴダールはカイエ・デュ・シネマのインタビューにこう答える。

私たちが他者に出会うとき、例えば、イスラエルの人々が「他者」としてのパレスチナ人に、彼らの存在を否定した後で会うときには、彼らに直面する勇気が必要でした。一方で、パレスチナの人々にとって、それは同じことではありません。イスラエルはパレスチナ人の「他者」ではなかったのですから。この非対称性が真の切り返しショットを構成します。真の切り返しショットとは、二つの事項に等しい価値を置いて交互に示すのではなく、関係性による多くの問題を提起させるものです。

もう一度。
サラエボだから扱えるイスラエルとパレスチナ。イスラエルとパレスチナを扱うことでまた意識せざるを得ないサラエボ。
そして、その作品を撮ることで見えてくる、想像できるもの。

*キュルニエ「目の前にあるのは、不可能な意思を受け継ぐ、思考なき物語のようだ。かつてないほどの空虚さだ」

  • キュルニエ・・・ジャン=ポール・キュルニエ/フランスの作家。実名で本人として作中に登場する。美術やメディア、文化政策に関する研究所を多く著す。

その空虚の中にあっても人はまだに何かを獲得でき、何かを失うことが出来る。まだ。

 Fleamarket

多くの実在の作家たちを登場させ、テキストと映像の引用の中で、そのゴダールの「ミュージック」を撮ることが出来るのはやはりサラエボしかないのだろう。
そしてゴダールは僕らに目を閉じて自分たちの「アワーミュージック」を見よと言う。

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